「夏休み」と広島原爆の日,そして原発問題

 夏休み真っ最中である。皆さんは夏休みと言えば何を思を思い浮かべるだろうか?やはり子供の頃の事なら「プール、花火、虫取り、スイカ、絵日記…」こんな言葉が連想ゲームのように次から次へと浮かんでくるだろう。

私が夏休みという言葉を聞いて思うもの、それはずばり拓郎の「夏休み」の歌詞そのものだ。「麦わら帽子、田んぼのカエル、ひまわり、夕立ち、セミの声… 」どれも私たちの子供の頃の夏そのものを思い出させる。
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 私の子供の頃、当時は冷房などというものはなかった。だから昼も夜も家中の窓は開けっ放しという感じだ。それに冷蔵庫、これもやっと一部の家庭に入りかけた頃だった。だからスイカを冷やすというのは井戸の水ということになる。今から考えればのんびりした時代であった。昼寝していると午後3時ぐらいになると、チリンチリンと鐘を鳴らしながらアイスキャンディー屋が自転車でやってくる。周りは田んぼと畑の田園風景が広がる。セミの音がうるさい。
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拓郎の「夏休み」の歌を聞くと子供の頃の夏の風景が浮かんでくる。実にうまく表現していると思っていた。
しかしこの歌が、反戦歌であるということを知ったのはずーっと後だった。当時この歌を聞いて変だと思ったことがある。

「麦わら帽子も田んぼの蛙もきれいな先生も今はもういない」 ただ単にそれは過ぎた過去の思い出をそう表現したのだと思っていた。だがそうではなかった。それは、8月の暑い広島の地で原爆の強烈な熱線で瞬時に消失した人と物の事を表現していたのだ。「姉さん先生はもういない… それでも待っている夏休み… 」
 
毎夏、何気なく聞き流していたが、深い意味の歌詞だった。この歌 拓郎の作詞作曲だ。

その日がまたやって来た。そう夏はあたかも何もなっかたように毎年同じようにやって来る。今日は広島原爆の日(記念日という人もいれがどちらか正しいのだろう。)

最近、国内原発の再稼働容認の話がささやかれている。
原爆も原発も原理は同じだ。ただそのエネルギーの利用の仕方が違うだけだ。だから背負うリスクは結果として同じだろう。

この夏は日本の国内の全ての原発が止まったままだ。関西電力や九州電力では、電力不足が心配されている。その不測の事態に備えるために、関東東北方面からの電力の融通を準備している。その時最も大きな問題は周波数の違いだ。50Hzから60Hzへの周波数の変換が必要だ。その重要な仕事を担っているのが浜松天龍区の佐久間の周波数変換所なのだが、今年は今までにない緊張が、この所内に張りつめているという。電力供給の仕事は生命の危険を脅かすほどの重要な仕事なのだ。だから電力会社は国の政策によって長い間、保護されて来たのだろう。
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でも、2年前頃のあの激しい反原発の動きはどこにいったのだろうとも思う。私は原発に対して賛成でも反対でもない。
しかし原子力の平和利用の名のもとにここまで勧められてきた原子力政策には疑問を持たざるを得ない立場の一人だ。私の職場の周りには電力関係の会社の人がたくさんいる。皆現状の電力会社の苦しさを訴えている。

話を聞けば言いたい事の中味は理解できる。でも本当にこれでよいのだろうか?といって今の再生エネルギーの制度にも疑問が多い。 結論は簡単には出ないがもっとこのことについて我々は学び知る必要があると思っている。そのような中で、我々がどのような選択をするべきなのか自ら結論を出していくべきだろう。

広島、長崎と原爆の日が続く。この日も最近、すこしずつ色あせてきた。でもこれを機会にもう一度原子力の利用について考えてみよう。(記念日はその字から、記して念ずる… 忘れることのないように記された日のことだろう。)
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              [わが家のミモザの木 セミが中央にへばりついて鳴いている。真ん中の黒いもの]

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